潮騒

日記

12/1

 

この前の土曜日は小國神社で紅葉を見に行ってきた。濃く色づいた紅葉が散り散りに小川の水面に落ち、さまざまな色を添えていた。道にかたまっている枯葉を靴で思い切り踏むと、カサッカサッという音がして幼少の気分になった。風が吹くといっせいに葉が降ってきてわたしと彼の服や頭については落ちていく。売店で抹茶しるこを買って温まりながら食べた。とても甘くて、胃の真ん中をじんと熱くした。彼のやさしさが嬉しい。次第にあたりは暗くなって、紅葉はライトアップされていた。大きなカメラを持って長靴を履いた男のひと何人かが小川に入って撮影をしていた。紅葉だけが明るくて、ひとの顔は薄暗くてよく分からなかった。照明器具の光りに虫たちが集まってはしゃいでいた。燃やしあっている。たまに車が横切った。ヘッドライトが彼の顔を明るくして、通り過ぎるとまた暗くなった。その瞬間が美しいと思った。水面の模様すら映って。ぬらぬらと土が濡れていて、官能的な雰囲気だった。誰も見てない隙をねらってキスをした。暗いってとても良い。

 

 

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11/28

 

結局ツイッターをまた再開した。ぼろぼろと感情をこぼすことが耐えられなくなったり、他人の剥き出しに耐えられなくなったりしたけど、くだらない感情をこぼす場所があるということがわたしの支えになっているみたいだ。色々と考え出すと止まらないんだけど、それもまた良いのかも。吐き出しすぎても言葉が空っぽになることはない。自分の内側をいつだってあたたかくしておきたい。久しぶりに戻ってみるとやっぱり楽しい。矛盾だらけのわたしだけど、今はそれすら許せてしまう。自分に甘々。インターネットとうまく付き合いながら生活する。当面の目標。

11/21

 

冬の冷気が身体の芯にまで浸食してきた朝、懐かしい匂いと光りとともに10年ぐらい前にタイムスリップしたかのような感覚に陥った。この時間や日々を何度も繰り返して、同じようなまどろみが襲う。10年前に何をしていたかという記憶はそれほど無いのに、感覚だけはたしかで細胞に記憶が宿っていることがわかる。詩集を買って、薬局にも寄って、バイト以外では買い物をしているときだけ社会とつながれているように思う。陽の色が濃くて、木に実ったみかんの色が深いオレンジに染まっていた。手をのばして触れてみたかったけど、届かなかった。他人の家だし。コンビニに行こうと歩いていると道端に小さくて真っ赤な実がたくさんなった木を見つけた。これはなんという実なんだろう。血みたいに赤かった。

 

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きれいで見とれた。昨日よりだいぶ調子が戻りつつある。

 

 

11/20

 

胃痛と耳痛と頭痛と体のだるさと重さがすごい。何かを無理しているのか、原因が何なのかよくわからない。座るのもしんどい。本屋で岩倉文也の詩集を取り寄せたから明日買う予定。今はそれが楽しみ。岩倉文也のツイートは整合性がないようで安定して一貫した世界観という矛盾に惹きつけられる。誰かの剥き出しはもうたくさんだけど、この人が構築するものにはとても興味がある。インターネットにも良い詩がある。

いろんな思いが頭をめぐって、表と裏を意識する。このブログはわたしの裏?時々ここに書いてある色々がわたしから出たものだとは思えなくて怖い。内容は子供っぽいけど、テンションが35歳って感じがする。

 

体調悪い時に限ってシロップの曲を聴いちゃうから病気だ。サイケデリック後遺症。

11/19

 

ツイッターで、ぼろぼろと思ったことをそのままの言葉で吐き出すことがなくなって、自分のなかに生まれた思いなどを大事にしようと試みている。吉井さんが言っていたように、スマホは自分の世界を狭くするっていうのは本当のことだった。もともと狭いのがさらに狭くなる感じ。一行の詩みたいでキラキラしていて感覚がゆれる良いツイートを見るのも好きだったけど、それすらもういいやと思った。自分の言葉というものを考えたとき、この本が読みたくなった。

 

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3年前、著者がジュンク堂のPR誌「書標 ほんのしるべ」のコーナー「著書を語る」に書き記したものによると、

SNSを見ればわかる通り、私たちは善悪是非をめぐるおしゃべりに忙しい。しかし、自分が何をどのように捉え、自分の放つ言葉がどういう意味を持っているか、についてさほど考えていない。言葉を話しても、それについては対象化していない。

と書いてある。自分の言葉について想像できなくなっている、生々しい言葉を話すことができなくなっている。こころで感じとるより先に口について出るあれこれ、頭で考えるより先にこぼれ落ちるあれこれを指先で操って、それで自分はちゃんと言葉を操っていると勘違いしていた。

概念の積み重ねの巧みさではなく、息をして歩み続ける私という身の丈から偽りなく言葉を紡ぐことができるか。

 

作家じゃないから(フリーターだし)大層なことも言えないしできないけど、人間であってコミュニケーションをとる生き物である以上はじっくり考えることも必要だと思った。読みたい本ばかりが増える。何も追いついていない。

 

ナボコフの「ロリータ」はやっと136ページまで読み進めることができた。主人公が最初の伴侶のことを「ラム酒漬けのカステラみたいな女」と表現しているところでは声をあげて笑い(ひでぇなと思ったから)、(おそらく)主人公が自分の陰部のことを「形容できない情熱のかくれた腫れもの」と表現しているところでは溜め息がでた。こんなふうに至るところで比喩表現が飛び出し、そのたびにちょっと止まってしまうから先に進むのが遅くなる。でもようやく面白い展開になってきた。最後まで読んだら感想を書く。

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11/18

 

ショッピングモールのフードコートでB’zの「いつかのメリークリスマス」が爆音で流れていて感性が死んだ。わたしは玉子あんかけうどん、彼はサラダうどんを食べていた。目の前に親子連れがいて、お母さんは赤ちゃんを目一杯あやしていた。赤ちゃんはとても嬉しそうに笑っていた。あんなふうになるんだろうか。

 

夜の道をずっと走っていた。トンネルの灯りはオレンジ色がいいのに。オレンジ色があたりを染めて、まるで燃えているみたいになっているのがいいのに。非現実感がいいのに。白い灯りは、ちょっとしらける。クリアになりすぎてしまう。LED。夜空と海の境目がわからなくなっているのを見て、上も下もないことを思った。明るすぎるコンビニが儚くて、そこから吐き出される人に笑顔がないことが気になった。

 

11/14

 

自分の隙間を自分で埋めることができなくなっていることに気づいて、電車にすわってスマホを見つめる半開きになった女のくちを見て悲しくなったりした。満たされようと思って、物や人に囲まれていれば満たされると安易に考えて街に行ったのがいけなかった。心と向き合うといつも失敗する。この時になって、ひどく体の奥深くが渇いてきていることを感じた。眼球をすべりゆく光りや人。なにかを感じることさえ許されないスピードで行き交う。視線があわないようにすりぬけることや、人がそこにいないかのように通り過ぎることには慣れているけれど、私だけが街のなかで置き去りにされたような感覚は消えなかった。みんなには名前があって、私には無い。どうしてここにいる。

街に着いた途端に海が見たくなって、でもそこまで行く元気はとっくに無かった。青い海の真ん中にうずくまって、眠りたくなった。自分という存在を飲み込んでくれる海の真ん中が恋しくなった。カフェで買ったであろうカフェオレを地面に置いて友だちと話す男のカフェオレを蹴り倒す妄想と、私の腕すれすれを通り過ぎる自転車を押し倒す妄想をした。危ないイメージばかり頭に残る。電車の窓に映る起伏。建物の谷間で、いつも何かが落ちている。

冷えた冬の夜風が吹く帰り道、お父さんが窓辺で喫っていたタバコや大きなからだを思い出してしまった。本当は海ではなくて、お父さんの腕の中で眠りたかった。寂しくて寂しくて、涙がながれたから、夜風で少し冷ましつつ歩いた。どうして欲しいと思ったときにはもう居ない。剥がれてきたマニキュアが暗闇で虚しく光って見えた。