潮騒

日記

2/2

新しく買った手帳に空白の日をつくることなく、1月の日記を埋めることができた。青く薄く滲んだミミズみたいな字がのたうちまわる。ただそれだけに熱を費やしたような1月だった。もう2月になってしまった。

 

去年から読み進めていたナボコフの「ロリータ」をようやく読み終えて、わたしのなかに何か生まれてくるだろうかと期待していたけれど特に何も生まれなかった。ナボコフの表現力の高さ、豊かさ、緻密さ、神経質さに驚きはしたものの、著者自身も言っているようにこの小説には何も教訓じみたものが無いからこそ、わたしはこの小説について何を言えばいいのか戸惑ってしまう。客観的なものはなく(空想の博士がはしがきに出てきて物語の説明をしているものの)、すべてがハンバート・ハンバートの主観で進んでいく。ハンバートは永遠性を好んでいる。ハンバートの心には自分とロリータ(ニンフェット)しか住んでおらず、他人のことは家畜かゴミのように扱っては自分の世界から排除している極端さが、あそこまででは無いにせよ自分と重なる部分があって読んでいてちょっとつらくなった。前妻のヴァレリアのことを「ぶくぶくふとった、脚の短い、やたら胸のでっかい、知恵の足りない、ラム酒漬けのカステラみたいな女だった」と描写しているところは笑ってしまった。あまりに愛情も思いやりもない描写(そもそも結婚したのだって、おいしいシチューとダッチワイフを求めた結果だったのだ)。

「ロリータ」にはこういうような、相手をぼろぼろに悪く形容する描写が頻発する。ハンバートが愛しているのはロリータ(ドロレス・ヘイズ)ただ1人だ。ロリータにしか興味がなく、視界になく、すべてを手にしよう、もしくはもう手にしていると思い、支配しようとする。そしていつも怯えている。ひとりぼっちになってしまったロリータ。感情の起伏が激しく、大人びた印象のロリータ。けれどこの小説はハンバートの主観で進んでいくためか、本当はどういう子どもなのかがあまり見えてこない。ロリータの気持ちが見えてこないのは、ハンバート自身がそれを無視しているからなのだろうと思った。愛していると言っているが、愛している人の心は排除していた。とにかく欲望に抗えず、失敗を繰り返しては怯えるただの男。読み進めていくうちに、だんだんと気持ちが悪くなってくる。最後まで惨めな男だった。誰も救われない物語だった。分かってはいたけれど。一行一行に繰り出される多彩で豊かな比喩表現で読書の歩みが止まる。そのためにこの物語の残虐さは輪郭を失いかけている。ナボコフの提示した「美的快楽」の海が、靄みたいな実体のない映像ばかりを浮かび上がらせていた。それすら楽しんでいる自分もいた。