潮騒

日記

8/8

 

 

吉井和哉がブログに静岡の街中を写した写真を載せていて、居ても立っても居られなくなったわたしは静岡の街中に行った。電車に揺られて10分。少し雨が降った。台風が近づいているらしいけどこっちには影響がない。駅前の交差点をめざし、歩く。横断歩道が青になり渡る。盗み撮りみたいなスピードで歩きながら1枚撮った。

 

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灰色の景色が曇り空と重なってノスタルジックな街並み。車も多くてデパートには物が溢れているのに、どこかからっぽな気持ちにさせる。この景色を、吉井和哉もわたしも見てきたんだ。同じ景色を、同じ気持ちを共有している気になってうれしい。良くも悪くも変わらない街。

デパートに寄ってTシャツを1枚買った。肌が白くて整った髪のおしゃれな女性店員がたくさん居た。同じ場所に居ても、入り込めない領域みたいなものを感じた。わたしはどうしたって向こう側に行けない。買った服はスカラップ襟の色々と着まわしができそうな服。女性店員が着ている服といっしょだった。

そのままジュンク堂へ。本屋に行くと文芸コーナーよりも詩集コーナーを見たくなる。

最近の本屋は詩集コーナーに力を入れないのか、いつも角に、端に、追いやられている。新しくできた本屋なんかはコーナーすら設けておらず詩集はゼロだった。

詩はむずかしい。小説は細かく描写したり気持ちを説明したりすることができるけど、詩はそのまま放り投げてきたりする。光景や気持ちの想像を読むものにまかせてる感じがする。現代詩なんかは特に。

音楽の歌詞は、音楽があるから成り立つ部分が大きくて、音楽に対して感情を乗せやすいから気持ちや描写の説明が無くてもわかる時がある(分からない時ももちろんある)。正しい気持ちの方向がわかる。喜びとか悲しみとか。記憶のよみがえりもある。

詩はその点、音楽がないから(リズムを感じる時はある)言葉だけを投げられてもどうしたいいいのか戸惑う。 言葉だけが欲しい場合は詩はわたしにとって役立つ。でもそんな読み方しかできない。

わたしみたいな人が多いのだろうか。そもそも詩人は一般的に超有名な人が少ない。知らなかから、知ろうとする人が少ないのかもしれない。

それでも詩は必要だと思う。俗的なエンターテイメント小説や推理小説とはちがった、理解なんて到底できない世界に詩人は頭を浸してる。そんな世界から表現された言葉を読むことができるのは結構奇跡だ。

だから詩集コーナーを無くして欲しくない。むずかしいからたくさん読んだり暗記したりはできないし、読んだことのない詩のほうが多いけど……。

 

デパートのフルーツジュース屋に足を止めるも買わず、そのまま駅まで突き進んだ。雨は一瞬で止み、帰りは濡れずに帰ることができた。